長尾街道
難波大道の痕跡が、堺と松原の境界で見つかり、幅17mもあったことわかっており、2つの街道(大津道・丹比道)は堺と河内・大和の生活・ 経済をつなぎ続けました。
大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があり、その大津に至る道という意味で大津道ともいわれていたのが長尾街道である。
ところで大津道は、東西に一直線に延びる道筋が推定されていますが、現在の長尾街道は必ずしも直線ではありません。
西から藤井寺市域に入る迄はおおむね直線の形態を残しており、直進していれば志貴縣主神社の北側付近を通過していたはずですが、突然南寄りのルートに変わりっています。
とは言え、藤井寺市内の部分では、藤井寺インターチェンジに取り込まれた部分以外は、街道が完全に残っており、道標もいくつか見られます。
つまり、起点の堺市から松原市・羽曳野市・藤井寺市に掛けて、明治期までの旧街道の道筋がよく残っており、地図上でも簡単にたどることがでるけれど、長尾街道に関して言えば、柏原市を含む大和地域に入ってからは、現代になって新設された国道や県道に取り込まれたりして、少々わかりにくい状態になってるんよ。
【長尾街道こぼれ話】
長尾街道については、竹内街道とともに知っており、堺からまっすぐ東に延びていた大津道(おおつみち)がもとになっていると言われているんよ。
しかも飛鳥時代において、難波(なにわ)と大和の都を結ぶ官道としては、丹比道(たじひみち)とともに重要であったはずである。
その当初のルートについては諸説あって、未だに確定ができておらず、“謎の官道”と言われているけれど、天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも利用されていた街道である。
《ザビエル公園》
実はここで、どうしても知ってもらいたかったのが、ルイス・フロイスのことで、その著『日本史』には戦国時代の資料としても役立つし、キリシタンとのことがわかる。
しかもその周辺には、秀吉とかかわった人物や屋敷跡があり、呂宋助左衛門や曽呂利新左衛門については、もっと知りたくなってしまうのだ。
《五箇荘》
「今井宗久を五箇荘の代官にした」には驚かされ、しかも我孫子には鉄砲工場を造ったというのだからさすがの天下取りである。
しかもこんな小さな地域でも、神社仏閣がひしめき合っているのを見ると、このコロナ禍にあって、地域の関係というものを考えさせられる。
《阿保茶屋》
ここで疑問視されるのが、河内大塚山古墳(松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘)の被葬候補者として、宮内庁が雄略天皇を挙げていることである。
というのも、全国で第5位の規模を持つ巨大古墳だからだが、築造時期が6世紀後半ならずいぶんと違うように思えるのだ。
《雄略天皇陵》
大津神社は、もちろん長尾街道とはもっと南側にあり、直接は関係ないのだが立ち寄ったわけである。
そして大津三座について調べていくうちに、『続日本紀』にあった辰孫王のことが、記紀のどこにも記述がないということである。
《允恭天皇陵》
ここもまた、宮内庁は被葬候補者として、允恭天皇を挙げているのだが、巨大な石棺とともに多数の副葬品が出てきたのだ。
そしてもう一つ、大伴室屋のことで、彼は武内宿祢と同じような働きをしているかもしれないと思ったことである。
《河内国分》
実はここで、長尾街道は立ち消えになったように、閉ざされてしまったといえば誤解が生じるかもしれないが、長尾街道に関する碑はない。
つまり、国分というがごとく、大和への道は分散され、その時代ごとに向けて、それぞれの奈良道が作られ、現在も新しい道路はできているのだが、鼓動はますます失われていくやもしれない。