河内国分
市全体の2/3が山間部である柏原市であり、中央部には一級河川である大和川が流れており、市役所の近くで石川と合流している。
つまり、市域北西部は比較的平坦で、市域北部には生駒山系から続く山がそびえており、大和川を挟んで南側は金剛山系に連なる山地なのだが、市域東部の亀の瀬(峠地区)近辺は軟弱地盤である。
石川橋を渡れば柏原市なのだが、この橋は石川に架かる橋の中では最も下流に在り、北方約900m下流のところで大和川に合流します。
しかもこの府道堺大和高田線は、堺-当麻(現葛城市)をつなぐ「長尾街道」のバイパス道路として造られました。
長尾街道の基だったと言われる古代の官道「大津道」は、もっと北の方で東に直進していたそうなので、石川を渡った所で北から南下して来る東高野街道と交わっていたようです。
この石川橋を渡り、玉手丘陵の北端に鎮座している片山神社に立ち寄るが、創建年代、由緒や祭神などは明らかではない。
昔はこの丘陵一帯を片敷山と呼んでいたようで、それが片山の地名の由来とされているようで、 この神社の境内に「片山廃寺塔跡」があり、由緒については、奈良白鳳の頃、片山・玉手・円明の三村は大化改新以降の尾張郷で、古代氏族名鑑の「新選姓氏録」に記載されている尾張連の本拠であったというのだ。
ちなみに、誉田八幡宮のすぐ北にある誉田御廟山古墳の応神天皇の皇后である仲姫(なかつひめ)は、この尾張氏の出身(母方)であり、その陵(みささぎ)は、藤井寺市にある。
原川橋を渡ったところが国分で、このあたりは古来より難波・河内国府と平城京・飛鳥とを結ぶ官道・古代道路の中継地点として栄え、そのひとつが「長尾街道」の経由地であったはずである。
飛鳥時代後期(7世紀後半)には東条に大きな仏教寺院が建てられ、それが後に河内国分寺として改修されたといわれている。 しかし平安京遷都以降は京と国府を結ぶ道路の経路から外れたことにより寂れ、国分寺もいつしか廃寺となった。
しかし国分寺があったことにより、現在まで「国分」の地名として残っており、その国分東条町には河内国分寺塔跡があり、付近には21世紀に再興された河内国分寺がある。
ところが長尾街道は、国分寺とともに痕跡が失われたかのように、ここで途絶えてしまい、道の旅人は原川の上流をたどってみた。
つまり、旭が丘に向かうのだが、そこには関西女子短大・関西福祉科学大高・関西福祉科学大と並んでおり、さらなる頂にあるのが大阪教育大なのである。
画像にある建物は国分病院で、原川を挟んで教育大前駅が見える。
ここからの道はふさがれており、病院に沿って迂回すると、羽曳野へ戻ってしまうのだ。
奈良県香芝市に発した原川であるが、県境を越えて、近鉄大阪線関屋駅付近で西に転じ、この後国道165号と近鉄大阪線沿いに北西に流れ、香芝市田尻・柏原市旭ヶ丘では山中を蛇行してきたものの、道の旅人はさかのぼることができず、立ち往生してしまった。
それならばと、駅の高台にある国道165号線を選べば、大阪教育大前駅中交差点付近に原川親水公園がある。
この公園は、「自然とのふれあい」をテーマに多種多様な樹木や草花の植栽と芝生広場の整備を行い、休憩のための東屋やベンチも設置しており、自然の中で読書をしたり絵を描いたりすることができるんよ。
大阪教育大前駅自転車駐輪場西側から延長135m、幅2mの透水性舗装を施した公園への遊歩道の整備も行われています。
この公園を河内国分駅から当公園までの往復約4kmの散歩・ジョギングコースの折り返し地点としても利用できる。
公園は原川を挟んだ2ヶ所と、田辺46号沿いの計3ヶ所で、面積は合わせて約1800㎡(約550坪)。
川の両岸は階段と飛び石を利用して自由に行き来することができるようになっており、市民の憩いの場として利用されている。
とは言っても、長尾街道は、国分から田辺を通って、大和の田尻村へと続き、田尻越えとも呼ばれる道があったようで、それが現在の国道165号の前身道路だという。
明治に入って長尾道(大和道)→長尾街道と名称が変わり、ルートも大きく変わったのであろうか?
現在の国道165号の田尻峠付近の道はこの時に出来たもので、それ以前は関屋峠越えのルートだったというのだ。
ところが、柏原市で長尾街道が消えてしまったかのようにその痕跡が見つからないのだが、近頃の線状降水帯の影響か、山道は危険として閉ざされているのだ。
仕方なく逆ルートで、関屋から往けるくところまで行くことにした。
そこで出会ったのが、旧国道の府県境道標なのだが、早くも断念せざるを得なかった。
つまり、この旧街道?は閉ざされ、大阪側に抜ける事はできないので、結局は国道165号線を、教育大を目指して上らざるを得ないのだ。
ビュンビュン走る車に遠慮し、トラックには怯えるのだが、ドライバーも迷惑だと感じているかもしれないなぁ。
そんな不安もピークになるころに、迂回する道に出遭い、西名阪道路柏原インター信号手前の峠道を右に入ることができた。
その道なりを行き、高速道の上下2本の陸橋を潜り進んでいくと、教育大とは離れていく一方だが、道なりに出てきたところに田辺廃寺跡である。
田辺廃寺は、現在の柏原市田辺を本貫地(ほんがんち:本拠地)とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われており、 7世紀末から8世紀前半に建立された古代寺院跡である。
ところが、平安時代前期に火災にあい、その後金堂のみが再建されて室町時代まで残っていたとみられているんよ。
1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明しました。
東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。
遺跡は春日神社の境内にあり、 また田辺史大隅が藤原不比等を育てていることから、田辺廃寺の所在する春日神社(藤原氏氏神)との関連が指摘される。
南大門は柱間3間×2間の八脚門で、堂塔を囲む回廊は半町(約55m)四方、寺地は東西1町(約110m)、南北1町以上と推定されています。
金堂・両塔の礎石は現位置に残されていますが、講堂は削平され、位置は確認されておらず、僧房、食堂なども不明です。
これらの堂塔は平安時代前期に火災にあい、その後金堂のみが再建されて室町時代まで残っていたとみられています。
寺地南半は広い空間地となり、現在の池泉、神祠(しんし)も当時の姿を残すものと推定されています。
❻国分・奈良街道のパネル(国分駅前)
➐田辺・春日神社(田辺廃寺跡)
➑田尻西名阪高速道トンネル手前の坂道
⓫従是東奈良県管轄の碑
⓬関屋駅町並
なんとなく中途半端な気持ちで道の旅人は、国分・田辺・旭ヶ丘、そして関屋を実見したことで長尾街道を終えるけれど、いつの日かMAPルートを作成してほしいものだ。