夏目茶屋の渡し

堺大和高田線(大阪府道12号)の、石川を渡っている橋が石川橋で、藤井寺市と柏原市国分地区を結んでおり、奈良への重要な橋でもある。

この府道は、堺-当麻(現葛城市)をつなぐ「長尾街道」のバイパス道路として造られたもので、その長尾街道は、現在の石川橋付近を渡河してました。

もっとも、明治の世になるまでは橋は無く、普通は渡し船が利用されていたのですが、長尾街道の基だったと言われる古代の官道「大津道」は、もっと北の方で東に直進していたと思われる。道の旅人もまた、この石川橋を渡って、龍田越奈良街道を駆け抜けていくことになるのだが、そこで大和川に架かる国豊橋南詰に至る。

国豊橋は、柏原市の高井田地区と国分地区を結ぶ交通上重要な橋であり、竜田越奈良街道と長尾街道が交わる地点にもなるが、昔も今も交通の要衝である。

江戸時代には渡し船で両岸を結んでいたが、当時の国分村の住民が幕府へ架橋を願い出て許可自体はされるものの、資金不足で架橋されることはなかった。

 

明治になると、道路や鉄道などの交通も次第に整備されるようになりましたが、大阪から奈良へと向かう亀瀬越奈良街道の高井田村と国分村のあいだには、大和川を渡るために船による渡ししかありませんでした。

しかし、小船では多くの荷物を運ぶことができず、天候にも左右され、増水時には何日も渡れないこともあり、人々が、橋を望んだのも当然のことだったのです。

当初は「国分橋」(明治3年)と呼ばれ、国分と高井田の間に架かることから「くにたか(国高)」→転じて 「国豊(くにたか)橋」と改めたが、いつしか「くにとよ」橋と呼ばれるようになった。

昭和 7 年(1932)にコンクリート製の永久橋に架け替えられ、自動車交通の発展に耐えうるもの となった。

当時の写真からは、親柱には装飾灯、欄干には照明灯が取り付けられていたことが分かり、その後、昭和 41 年(1966)には歩道を増設。

 

平成 11 年(1999)には、上流(東)側に現在の橋にが架け替えられ、3 車線分(片側 1 車線+両岸の交差点の右折レーン分)の自動車道路と両側各 3.5m 幅 の歩行者・自転車道となった。 

というわけで、奈良街道は石川橋と国豊橋の二つのコースになってしまったが、この大和川の南岸をおぼったところに国分神社がある。

由緒:

創建年月は不詳ですが、古書、口伝等によれば鎌倉時代の建立によるとあります。

創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼(有職)、接待、技術等を伝え、その才の勲功があったと正二位の官位を賜りましたたが舒明天皇の13年(641)に没しました。

27年後の天智天皇の7年(668)妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳山の上に葬られました。

その墓は前方後円墳で史跡として当社が所有しており、境内地は、そのような古い歴史をもっていますが、その後の武家政治による変遷により、船氏の地位も消失し、氏人達の信仰のあった大和桜井の三輪大明神の大国主命と少彦名命、飛鳥部の伴造飛鳥大神の三柱が分霊・勧請されました。

国分神社がある丘陵上には、10基ほどの小さな円墳や方墳があったが、その中で一番高所に築かれていたのが前方後円墳の松岳山古墳である。

 

墳丘長130mの前方後円墳で、板状の石を積み上げて築かれた墳丘、大きな石を組み合わせた石棺とその前後に立つ孔の開いた立石、大きな楕円筒埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、その西にある玉手山古墳群とともに、古くからたいへん注目を集めてきました。

 

その古墳群から出土したと言われているのが、国宝の船王後墓誌なのだが、出土の場所や当時(江戸時代)の経緯については不明であるが、668年につくられたと考えられており、わが国最古の墓誌であることに間違いはないのだが、本古墳と墓誌との関係は否定されている。 

墓誌には次のように書かれていた。

船氏王後首は王智仁首の孫、那沛故首の子です。乎裟陁宮治天下天皇(敏達天皇)の時に生まれ、等由羅宮治天下天皇(推古天皇)に仕え、阿須迦宮治天下 天皇(舒明天皇)の時にはすぐれた才能を認められ、冠位十二階の第三等にあたる「大仁」の位を賜りました。そして辛丑年(641)12月3日に没しました。その後、戊辰年(668)12月に松岳山上に埋葬しました。夫人安理故能刀自と共に同じ墓に埋葬し、墓は兄の刀羅古首の墓と並んで作りました。この地 は永遠に神聖なる霊域であり、侵してはなりません。

船氏は朝鮮半島からの渡来氏族で、その祖先は王辰爾(おうしんに)とされている。

 

『日本書紀』によると、欽明天皇14年(553年)7月、天皇が樟勾宮に行幸した際に、蘇我大臣稲目宿禰は勅を受けて、王辰爾を派遣し、船の賦(みつぎ)を数え、記録させた。

この時、王辰爾を船の司とし、船史の氏姓を授けた、現在の船連の祖先である、とあるのが「船氏」の史料における初出である。

 

敏達天皇元年(572)五月のことである。

高句麗からの使節が烏の羽根に書かれた国書を朝廷に提出した。

しかし書記を務める渡来系の官人は誰一人解読することが出来なかった。

そんな中にあって、王辰爾は羽根を炊飯の湯気で蒸した後、柔らかい上等な絹布に羽根を押しつけて文字を写し取り、これを読み解いた。

国分村の中心部を東西に奈良街道が通っていました。

江戸時代になると、この奈良街道に沿って、村は東西にのびていきました。

奈良街道は大和街道とも呼ばれましたが、大坂方面を大坂海道、大和方面を南都海道と表記するものが多いようです。

大坂方面へは、舟渡しで大県郡高井田村へ渡り、そこから大和川右岸堤防を進みました。

 

大和方面へは、村の東はずれの夏目茶屋の渡し(現:川端橋)で大和川右岸の青谷村川端へ渡り、そこから大和川右岸に沿って進み、竜田越(亀の瀬越)で大和に入りました。

道の旅人は、河内堅上駅(柏原市大字青谷)に向かうのだが、柏原市の北東部に位置し、柏原市の前身である南河内郡柏原町と合併する前の中河内郡堅上村であった地域である。

現在の住所表記では、青谷・雁多尾畑(かりんどおばた)・本堂、そして峠の各地域に該当するのだが、この雁多尾畑周辺では古い時代に製鉄が盛んに行われていた。

朝鮮の言葉で鉄・刃物のことを「カリ」とか「カル」と言いカリンドオバタとは製鉄・刃物作りに携わる人のいる場所という意味の説があります。

同年に地域内に鉄道が大阪と奈良を結ぶ鉄道が開通するも、当初は峠地区にトンネルを掘って大和川北岸に沿うように通っていた。

しかし1932年1月に大規模な地すべりが発生し、トンネルは崩壊し、地盤の軟弱な峠地区を通らずに大和川を越えて南岸へ迂回するルートに切り替えられた。

4万年前から地すべりが繰り返されてきた難所であり、古代より都の西の玄関口として交通・経済・治水を支えてきたのが「亀の瀬」である。

人々は最新の土木技術を投じてこの要地を守り、龍田の風の神に旅や暮らしの安寧を祈願してきました。

龍田古道の道中にある亀の瀬は山に挟まれた天然の関所であり、また地すべり地として人々に恐れられていたため、万葉集では国境の峠が「恐(かしこ)の坂」と詠まれています。

 

父公尓(ちちぎみに)吾者真名子叙(われはまなごぞ)妣刀自尓(ははとじに)吾者愛兒叙(われはまなごぞ)参昇(まゐのぼる)八十氏人乃(やそうぢひとの)手向為(たむけする)恐乃坂尓(かしこのさかに)幣奉(ぬさまつり)吾者叙追(われはぞおへる)遠杵土左道矣(とほきとさぢを)【万1022】

 

奈良盆地の水を集めた大和川は、生駒山地と金剛山地のあいだの細い渓谷を抜け、大阪へと流れ出しており、その大和川に沿った山越えの道が龍田古道です。

しかも、大和盆地と河内平野にかなりの比高さがあるため、府県境のあたりではあれがきつくなり、川面にまで巨大な岩塊が露出しています。

江戸時代、大坂から大和へ向かう大和川の水運は、この場所を終点として亀瀬越の陸路で運ばれました。

亀の背状の岩が流れに入らんと水面に露出していたため「亀の瀬」の名がつけられた。

大和川が、奈良盆地から大阪平野に向かう、峡谷部の右岸側斜面に、「亀の瀬すべり」があるのだが、亀の瀬の位置する、生駒・金剛山地には火山が多く、数千万年以上昔から噴火を繰り返していました。

数百万年前には、亀の瀬の北にあったドロコロ火山が2度噴火し、その溶岩が地層の弱い部分に乗り、それらが大和川に向かって斜面を移動しているのが、地すべりの原因と考えられています。

「もう、すべらせない!!~龍田古道の心臓部「亀の瀬」を越えてゆけ~」

 

亀の瀬は古くから地すべりの頻発した地域で、昭和6年(1931)11月にも大規模な地すべ りに見舞われました。

この地すべりでトンネルは崩壊し、両側の入口(坑門)も埋ってしまいましたが、昭和37年(1962)から始まった地すべり対策工事の なかで、平成20年(2008)11月にこのトンネルの一部(約60m)が発見されました。

 

その「亀瀬隧道(ずいどう)」は、明治22(1889)年に着工された、全長439メートルのトンネルで、大阪と奈良を結ぶ初めての鉄道として敷設された大阪鉄道(現JR関西本線)のうち、明治25年(1892)2月2日に開通した 柏原市峠(亀の瀬)・王寺間に設けられた最初のトンネルです。

 幅4.3m、高さ4.75mの煉瓦(レンガ)造りの馬蹄形で、 側面がイギリス積み、アーチ部分の天井は長手積みで造られており、災害史、交通史からも貴重な構造物です。

 

道の旅人は、この後、峠八幡神社へと向かい、三郷の龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)で無事終了することになる。