桑津天神社
桑津は、東住吉区の北西部に位置しており、東西に横断している国道25号が生野区との境界線となり、関西本線がそのすぐ南側を並行している。
また、東部は駒川と今川が北に向かって流れ、今川の西岸が杭全との境界線となっており、西部は、近鉄南大阪線が縦貫し、北田辺との境界線となっている。
そもそも桑津の地名は、桑の木が多い津(河内が内海であった時の港)に由来 しており、今も名残の桑の木があります。
秋九月中旬、髪長媛(カミナガヒメ)は日向(ひむか)からやってきた。摂津国(せっつのくに)の桑津邑(くわつのむら)に置かれた。皇子の大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)は、髪長媛をご覧になり、その容貌の美しさに感じて、引かれる心が強かった。天皇は大鷦鷯尊が、髪長媛を気に入っているのを見て、娶合わせようと思われた。(『日本書紀』応神天皇)
髪長媛は桑津天神社に奉祀される以前、明治6年(1872年)に廃寺となった金蓮寺が髪長媛の宮跡であった関係で、境内の八幡宮に奉祀されています。
桑津天神社の主神は少彦名命で、これは髪長媛が病にかかった 時に医薬の祖神・少彦名命に祈願して全快した縁故で祀られたと伝えられています。
また髪長媛は、背丈以上の黒 髪であったのでこう呼ばれたといわれています。
桑の葉で蚕を育て、繭から絹が作られますが、髪長媛が機織りの名手であったこ とは、この地が古代から絹織物と深い縁があったことを想像させます。
境内には大坂の陣で戦没した将士の慰霊碑があ り、桑津で豊臣方と徳川方の激しい闘いがあったことを偲ばせます。
この天神社の東側には、桑津古新書によると、元和元年(1615年)に大坂夏の陣で焼失、承応2甲午年(1652年)に復興とある。
環濠集落建設の目的は一般的に、(1) 軍事的警察的自衛 (2) 保水灌漑 (3) 洪水対策 の三つであるといわれています。
桑津の地一帯は大坂夏の陣において激戦地となり、住人は四方に環濠を掘って環濠集落を形成。北に2ヶ所、南に1ヶ所、西に1ヶ所の計4ヶ所に木戸を設けて外部との通行を制限し、夜間には木戸は閉ざされていた。
桑津の場合、(1)の軍事的警察的自衛手段として四周を水濠に囲まれ、竹薮で一部囲まれていました。
外周の濠の東南部に2カ所、金蓮寺東側に2カ所、それぞれ少しづつ離れて濠が広くなって池となっていました。
外部に通じる道路としては北に2カ所、南に1カ所、西に1カ所の計4カ所だけで、現在でもその地名として桑津北口・桑津南口などが残っていますーこれら入口には木戸が設けられ、夜間は閉ざされていました。
慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの頃、落武者が夜にやってきて、「おたのみ申す おたのみ申す」と木戸を叩いて救いを求めたが、村人は後難を恐れ灯を消して木戸を開けることは無かったそうです。
集落内の道路は、北口より南口へ見通しの出来ない程度の、ゆるいカーブのある直線道路が一本あるだけで、他は複雑な屈曲をみせています。
南北に通じる道路として、もう一本京善寺東側道路がありますが、最短で30米先がみえない屈曲、見通しの出来ない四辻が2カ所、三辻が2カ所あり、その他の道には袋小路、クランク形の曲り、L字形でカーブになっているなど、初めて来た者には分かりにくくなっています。
軍事的自衛手段としてもう一つ、環濠の南側に突出部があり、南口からの侵入者に対して横矢をかける目的でつくられたと思われます。
(2)の保水灌漑として集落内の排水溝と考えられる箇所として、西側の南北に通じる道路は現在も低くなっており、南北からの水が合流し東に流れ、一旦池に入ってから環濠に入り込んでいたようです。
(3)の洪水対策としては環濠集落東側に駒川・今川が流れ北上して平野川に入っていますが、桑津環濠集落は上町台地の東縁の緩傾斜地で外側とはっきりした段差が認められており、集落東側の川が氾濫しても集落内が浸水しにくくなっていました。
なお桑津環濠集落は昭和はじめ頃まで、およそ400年間続いていましたが、今では濠はうめられて道路に変わり、細くて曲がりくねった道や、木戸口にまつられていた地蔵尊は今も残され、往時を偲ばせています。
桑津3丁目付近の駒川にかかる橋は、「五輪橋」と命名されています。
慶長20(1615)年の大坂夏の陣で平野と共に奈良街道に沿った桑津も激しい戦場になり、橋の名前にもなっているこの五輪塔はここで亡くなった二人の武将を供養したものです。
福島正則は賤ヶ岳の七本槍で豊臣氏への忠誠が厚かったため、徳川家康は大坂方への寝返りを警戒し江戸城留守居役として、正則の行動を封じ込めました。
そのため、正則の侍大将の柴田権十郎正俊が豊臣方に付き、徳川方に味方した蜂須賀九郎右衛門とこの地で闘い、九郎右衛門の首を討ち取りましたが、自らも重傷を負いこの地で自刃しました。
住民が二人の供養をし、二つの五輪塔を建立しましたが、九郎右衛門の墓の一基は行方不明となっています。
桑津小学校正門脇にある、「桑津遺跡」の石碑は、平成4年(1992年)3月、大阪市顕彰史跡として建立されたものです。
桑津遺跡は東住吉区桑津・駒川・西今川・北田辺一帯に所在する縄文時代前期から中世にいたる複合遺跡で、立地するのは上町台地東斜面の標高3~6mのところです。
遺跡の発見は昭和4年(1929年)、工事現場から土器や石器が出たことが発端で、発掘調査がはじまりました。
縄文時代前期頃の石鏃(せきぞく)が桑津4丁目で出土し、このことから、桑津遺跡に人が住み始めたのは約1万年以前にさかのぼると考えられています。
弥生時代の遺構は、桑津3丁目から5丁目にかけての広範囲で検出され、居住にかかわる柱穴(ちゅうけつ)・土壙(どこう)・溝・井戸や、埋葬にかかわる方形周溝墓など、居住地と墓地というムラのようすがわかります。
出土道具には、農具・工具・漁具、武器および狩猟具、さらに紡織具(紡錘車)などもあり、駒川や今川など、水のある所に古代人たちが住むのは当然のことかもしれない。
さらに、古墳時代5世紀後半の須恵器・土師器が広範囲で出土しており、 飛鳥時代以降奈良時代後期の大規模な堀立柱建物が、桑津4丁目から検出してるんよ。
平安時代以降から中世にかけては、緑釉陶器や輸入陶磁器の出土遺物から、長者たちの居住地となっていたかもしれないのだ。
また平成3年(1991年)、廃井戸の底からわが国最古の「呪符木簡」が発見され、大きなニュースになりました。
桑津遺跡から出土した7世紀前半の呪符木簡(じゅふもっかん)は、国内で出土した呪符木簡としては最古のものである。
片面には「日」字をT字形に繋いだ「符録」、その下に「文(欠ヵ)田里」と読める三文字があり、少しおいて二行にわたって「道意白加之/募之乎」の文字がある。
もう一面には「各家客等之」と書かれていおり、釈読については、「白加之」の部分を「由加之(ゆかし)」、「各家客等之」の「客等之」の部分を「皮皮等之(ははとし)」と読む一字一音表記で書かれているとする意見があるなど、文字表記の歴史を考えるうえからも、道教にかかわる民間信仰の源流を示す資料であるということからも貴重な資料である。
人は多かれ少なかれ、悩みを抱えながら生きている。我々は、何かを拠り所にしながら、その悩みから逃れたいことを、常に切望している。
過去に生きた人々も、現在生きる我々と同様であった。心の平安を願う一そんな心の諸相が表れる出土資料、それが呪符木簡である。
呪符木簡とは、木簡に呪符(宗教的教義に則した絵、記号、図形、文字)が描かれている出土資料である。
その出土時期は、古代から近世初頭にまで至り、我国の文化の一相を成していることが知られている。
本稿では、全国から出土する呪符木簡と、それを取り巻く諸相について考察していきたいものと考える。
また、同時に、出土呪符木簡に込められた願いを同定していく作業を行い、大地に埋もれた心の片鱗を復元していきたいと考えるのである。(風間 厚徳 )
民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。
道の旅人とて、『民俗学』は知ってはいたのだが、このコロナ禍にあって、人に気軽に声すらかけられなくなり、またお地蔵さんやアーケード商店街などが廃れたりするのを見るにつけ、さらには家族文化が失われようとしているのを見るにつけ、改めて【伝承】というものを強く感じるようになったのである。
人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。
こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。
これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。
民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。(Wikipedia)
道の旅人もまた、この呪符木簡を目にして、趣味から抜け出せないにしろ、町おこしの御輿を担いでみたいものであると思ったのである。