源が橋

かつては、環状線寺田町駅まで、大阪市電天王寺大道線(天王寺西門前駅ー寺田町駅)が走っていたようだが、1968年には前線廃止になっている。

その寺田町駅は、城東線の天王寺駅ー桃谷駅間に、1932年には新設開業しており、1961年には路線変更名称により、大阪環状線所属になる。

環状線の中では、この寺田町駅と天王寺駅との区間距離が最も短く、阿倍野、天王寺、生野の各区にまたがる駅なのだが、駅名、町名の由来はその昔、この地一帯が四天王寺の寺田(じでん)があったことから付けられたと言う。

平野街道(奈良街道)は、この寺田町駅の南側のガード下を潜りぬけ、道の旅人は阿倍野区に入ったのである。 

まず出会うのが生野地蔵尊(天王寺町北2丁目3)で、由緒は摂津の国生玉の庄、四天王寺に程近い毘沙門池の中に埋もれていた尊象を明治の初期当地の村人が地蔵堂を造営、安置したのが生野地蔵尊の起源だと言われる。

 

当地蔵尊ハ往時摂津ノ国東成郡生玉ノ庄内ニ在リシ毘沙門池ノ池中ニ埋モレ在ハセシヲ、明治初年当地ノ住人某ガ不思議ノ因縁ニテ當所ニ奉安シ奉リ日夜信仰篤カリシニ、其ノ霊徳高ク御利益遍(あまね)ク庶民ヲ潤ハシ給ヘリ。(後略)」と由緒書きがある。

(注)毘沙門池は現在の天王寺区役所の南側にあった大きな池(五条宮の北)で、上町台地の水を集めて、猫間川に流れ込んでいた。

 

蓮弁の座の象蓉の上部に梵字、右側には法名、左側には享保12年8月9日と彫まれ、何某かの菩提供養のために造立したものと思われる。

 昭和31年4月、生野地蔵奉賛会によって、生野地蔵尊として4月8日新地蔵堂が落成された。

 

この南側の筋には、子安地蔵(安産地蔵)が置かれており、古くは大正9年頃、当時の平野街道筋に在住の仏師であった吉本久三郎氏が木造づくり一刀彫の地蔵菩薩を彫って現在地よりやや西よりの地に祭祀されたのが黄金地地蔵尊(安産地蔵)の起源だという。 

この地蔵通りこそ、国道25号ができるまでは、天王寺方面から八尾~柏原を経て奈良方面に向かう主要幹線道路であった。

実は天王寺町北だけで、お地蔵さんが7つもあったといい、上記以外の地蔵は、どうやら旅に出られたようなのだが、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の地蔵菩薩だからこそかもしれない。

際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。

賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。

関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、 また道祖神(岐の神)と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られている。

交通の便に乏しい時代では大きな仏教寺院へ参詣することができず、簡易な参拝ができる身近な仏像として崇敬を集めた。

そのような地蔵に導師が置かれた例は少なく、そのため本来の仏教の教義を離れ、神道との混同や地域の独自の民間信仰の意味合いなども濃くした。

路傍の地蔵尊はさまざまな祈念の対象になり、難治の傷病の治癒を祈念すれば成就する、と喧伝されて著名な地蔵尊となったり(とげぬき、いぼとり、眼病、子供の夜泣きなど)、併せた寓話が後に広く童話としても知られるようになった例(六地蔵、言うな地蔵、しばられ地蔵、笠地蔵、田植え地蔵など多数)がある。

沖見地蔵尊(生野区生野西4丁目)は、舟のもやい綱を繋ぎ止めるための石の柱に刻まれたものだという。

源ヶ橋にゆかりの深いお地蔵さまで、源ヶ橋が架けられた文化八年沖見地蔵は、生野本通商店街を少し入った北側にある「靴のマルイ商店」の横の細い路地を入ったところに、北向きに祭られて現存する。

今の沖見地蔵の視線の先は密集した住宅地になっているが、昔はこの場所まで猫間川の水が引き込まれ、湖のような広い船溜まりになっていたのだ。 

初代の源ヶ橋は摂津の国で最も古い橋の一つと言われ、すでに延暦元年に架けられていたものと思われる。

近年の源ヶ橋は木造欄干の橋であったが、昭和5年~6年にかけて猫間川が暗渠となってから、いつの間にか橋は撤去された。

橋名は、民話伝説による僧侶有源「渡し守源兵衛我が子殺し」に由来する。

ここには、千年以前の昔から「猫間川」があり、南から流れてきた水が、北の旧淀川に合流していたのです。

 

江戸は、文化(1804-1818)と言われる頃、「猫間川」の渡し守をしている「源」という悪党がいました。
通行人から暴力で金品をまきあげきあげて生活をしていたのですが、或る日、例のように、一人の旅人からみぐるみ剥いで殺してしまいました。
ところが、この人が、長年行方を捜していた、我が子だったので、さすがの悪党の「源」も深く悲しんで悔やみました。
思い悩んだ末、ついに罪滅ぼしをしようと決意し、自分の身代をすべてなげうち、「猫間川」に橋を架けることにしたのです。
しかもその橋は、香木に使われる「伽羅」で出来ており、この伽羅香木の橋は、源さんの悔いを表して、あまりあるもので、人々は、善人になった「源さん」に因んで、「源ケ橋」と名づけて呼んだのでした。

猫間川の主な水源地は桃が池をはじめとした阿倍野の水田地帯であったが、上町台地からもいくつかの支流が猫間川に流れ込んでいた。

 その猫間川は、埋め立てられて姿形はないが、今の阿倍野区、生野区、城東区などを南北に流れていたのだ。

 

「阿倍野区天王寺町」は天王寺村の北北東に位置して、上町大地と我孫子丘陵との狭間にあって、ほぼ中央部に猫間川が流れ、殆ど野原や田圃で占められていた。

 

その間を奈良街道・田辺街道が通じており、明治の中頃から大正のはじめにかけては、戸数人口もまばらで、養鶏・自作農を営む程度で、俗に「阿倍野の北海道」とも言われた程の過疎の地であった。 

 

高松とは、天王寺村大字天王寺の内村の小字名のことで、そのほかに、馬ノ谷・黄金地・中島・鶴ヶ崎・八反田等の小字名がつけられていた。また高松は21区と22区となって解村当時まで継続された。(谷口利夫『わがまち天王寺町』)

文政年間に五穀豊穣、無病息災を願ってこの地、八反田に祀られたと言う説だが、地元では古くから(元和元年5月大阪夏の陣に於いて戦没した豊臣方の霊を弔うために阿弥陀如来を本尊として祀られたのがこの八反田地蔵の起源だという。 

寺田 町からまっすぐに北上すれば大 阪城で、ここは激し い戦闘地域ではあったが、いつ頃から八反田地蔵と呼ばれるようになったのかは明らかではない。

天王寺町では高松・黄金地とともになじみ深い小字名で知られているが、往古は川堀稲生神社の御料地「宮田」としての縁が深く、天王寺の牛市か八反田の馬市かと言われるほどの有名なところで、「馬市」は明治36年頃まで続いた。

難波大道:『日本書紀』によれば推古21年 (613)に「難波から京に至るまで に大道を置く

下高野街道(田辺街道):四天 王寺~寺田町~田辺~天美(松 原市)~八下(堺市)~岩室     

             (大阪 狭山市)で、その後、西高野街道 と合流します。

三本松(実は榎)の跡:「八平狸の 祠」と呼んで地域の信仰対象でしたが、昭和13年             (1938)ごろ に伐採されました。

八反田地蔵:昭和63年2月新八反田地蔵が造立された。

猫間川跡:往古は自然の川でしたが現在は 暗渠です。

法山寺:めずらしい薬医門があり、これ は室町時代に寺院や医師の家に 使われました。

都市(まち)が新しくなっていくために、区画が整理されるのは避けられないことだが、道を教えてもらえる地蔵様も、旅に出られるのは、道の旅人にとっては寂しい限りである。

そうした街道沿いには宿場もあり、市場もでき、今でもその名残のようにアーケード商店街が連なってはいるが、いつまでも待ちとともに繫栄してほしいものだ。